高島北海
たかしまほっかい

本名 高島得三
生没 1850~1931年
山口県萩市出身
 

 

 

 

 

 

高島北海は、南画家、地質学者で日本では顕彰されていないが、フランス芸術史では業績が高く評価されている人物である。
長門国萩(萩市)藩医良台の次男で、本名得三。北海は号。 1872年、工部省に勤め、生野銀山に赴任し、フランス人技師コワニェから地質学とフランス語を学んだ。 1874年、「山口県地質図説」「山口県地質分色図」を著し、1884年、万国森林博覧会参加要員として渡英、その後、南仏ナンシー山林学校留学。
明治維新間近の長州藩といえば維新を目の前にしていろいろと殺気立ち、血なまぐさい事件も多かったはず。しかし、この高島北海という人はよくよく争いごとが嫌いだったのか、武人として戦に出ることもなく、維新後も長州藩閥の強い軍人とはならなかった。 とはいえ、このばたばたした時代に自分の思うような職につき、フランスに留学までしているのだから、才能があったとはいえ、長州出身ということが彼の人生に大いに役立ったのは間違い。
北海が留学したフランスでは、まさにジャポニズムが隆盛の時期。彼が筆でさらさらっと描く水墨画は、周囲の人々の脚光を浴びた。
この頃、同じナンシーで工房を構えていたエミール・ガレと北海は出会う。ガレは北海から日本画技法の手ほどきを受けたことで、ジャポニズム運動(日本趣味)をアールヌーボーに発展させるに至った。北海と出会う前のガレは、ヨーロッパ諸国で流行するジャポニズムの風潮を肌で感じてはいながらも、未だ古典的なロココ様式のボヘミアガラス(エナメル絵付け)を作っていた。ようするに、北海とガレの出会いがなければアールヌーボー芸術は存在しなかったということになる。
1888年、北海は帰国し画家に転じ、中期~後期の画業生活を長府(山口県下関市)に求めてた。 長府に居を構え、現在の豊浦高校で図画講師をしながら中央画壇での活動もしている。 さらに、「長門峡」(命名は北海)など山口県の名勝地の開発や紹介に努めた。 昭和5年(1930年)、東京・品川の子息の元に身を寄せ、昭和6年(1931年)その生涯を終えた。享年80。
 
卒業したナンシーの学校には、タカシマの写った卒業写真とともに、彼が描いた植物の細密画や写生画が保存され、ナンシー派美術館には彼のレリーフ(ビュシェール作)が飾られている。また、1886年のフランス東部美術展に日本画を出品、現地の高い評価を受け、その絶賛は日本にも報道された。パリ装飾美術館長の依頼でリモージュ美術館に作品を寄贈し、1887年には仏政府より教育功労勲章を授与され、100年の後になって1987年(昭和62年)、日本で開催された「ナンシー派アール・ヌーボー展」では、日本とナンシーを結んだ人物として、ナンシー市長のメッセージがこう寄せられている。
 
「タカシマは花卉枝葉の美麗、即ち植物の真状を写し出すことに卓絶し、想像画家と自然画家とを兼ねるものは、日本人より他にあらざるが如し。而してこれを実行し得る者は、日本人にして森林家たるタカシマ氏、実に其の人なり。」
 

Daum Frères
ドーム兄弟

兄オーギュスト(Auguste Daum,1853-1909年)
弟アントナン(Antonin Daum,1864-1930年)
仏・ナンシー
 

 

 

 

 

 
オーギュストとアントナンのドーム兄弟は、フランス、ロレーヌ地方のビッチの出身である。 普仏戦争終了後の1872年、ドーム家はプロイセンの占領を避けてナンシーへ移住した。 兄弟の父、ジャン・ドーム(1825-1885)は出資したガラス工場の経営者となったがオーギュストは1878年頃から、アントナンは1887年から、それぞれ父の仕事を手伝っている。
すでに、1884年の装飾美術中央連盟展で同じナンシーのガレが金賞を受賞して注目を浴びており、ドームの工場でも日常雑器の生産から、より高度な美術ガラス製品への移行を画策していた。 それから5年後、パリで1889年の万博が開かれ、ガレが出品した300点のガラスと、200点の陶器、17点の家具を出展し、いずれも植物をモチーフにした日本の装飾意匠えお連想させるリリカルな表現によって参加者の絶賛を浴び数々の賞を獲得した。 アールヌーヴォーの爆発的展開がこのときより始まるのである。
同じく1889年のパリ万国博覧会にドーム工房はテーブルウェアなどを出品した。 この時期からドームも爆発的躍進が始まる。 1891年、新たに装飾工芸ガラスを制作する部門を設置し、多くのガラス工芸家や美術家が導入された。 ウジューヌ・ダマン、ヴィクトール・マルシャン、ポール・ラカド、セーヴル・ウィンクラーといった画家たちや、ジャック・グルーベルのようなグラヴィール作家、彫刻家のアンリ・ベルジェ、陶工にして後にパート・ド・ヴェール作家に転身したアマルリック・ワルターも招聘された。
一般に、ドームの作品は風景文様を用いたものやヴィトリフィカシオンを上手く生かしたものに秀作が多い。 他にパート・ド・ヴェールの小容器や小動物、エッチング文様の上にエナメル彩色を施した山水風景の花器や容器も、ドーム兄弟の独壇場だった。
1894年、ナンシーおよびリヨンの博覧会で金賞を受賞。 1897年のブリュッセルの万国博覧会でも金賞を取り、この年、オーギュストにはレジオン・ドヌール勲章が授与されている。 さらに、1900年のパリ万国博覧会でも大賞を取り、この年アントナンにもレジオン・ドヌール勲章が授与された。 1901年にエコール・ド・ナンシー(ナンシー派)が結成されると、アントナンは副会長に推されている。 1914年には第一次世界大戦の影響で操業を停止したが、1919年に再開。 1920年代はアール・デコのスタイルで、その後は透明クリスタルのガラス置物などを生産し、現在に至っている。
 

 
 

Louis Comfort Tiffany
ティファニー

本名 ルイス・カムフォート・ティファニー
生没 1848~1933年
米・ニューヨーク
 

 

 

ニューヨークの巨大宝石商ティファニー家に生まれたルイス・カムフォート・ティファニーは、当初画家を志し、パリにも学んだが、帰米後、友人と共に室内装飾の会社を始め、壁紙からカーペット、照明器具、家具、ステンドグラスまで広範囲に手がけた。 しかし友人たちがこの会社から離れて別の会社を興したのを機会に、自分の独立会社を設立し、また、1885年にはティファニーガラス会社を設立して玉虫色に輝くラスター彩のガラス器の製造を始めた。
ティファニーが1889年のパリ万国博覧会に参加したときに、東洋美術商サミュエル・ビングに会い、豊富な日本美術や中国美術品を見せられ、その素晴らしい造形に開眼させられた。 同時に、同時に出品されていたエミール・ガレの作品に感動したことが大きな動機となって、帰国後の1892年ティファニーガラスおよび装飾会社「ティファニースタジオ」(通称)を設立。
スタジオの活動は幅広く、ガラス部門は、ガラス工芸家A・ダグラス・ナッシュとレスリー・H・ナッシュ父子、化学者パーカー・マクイーネイの協力で展開された。
ティファニースタジオの作品は幾種類かに分類されるが、外側または内側にラスターを掛けたラスターグラス、色ガラスの花文様を外側に熔着したミレフィオリガラス、透かし模様を付けたディアトレッタグラス、細長い繊細な足をた鶴首花器、カメオガラス、テルエル・アルマナグラス、網目文ガラス、パステルグラスなどがある。
そうしたガラス技法を巧みに組み合わせることで照明器具にも独自のジャンルを開拓した。ティファニーランプと呼ばれるスタンドランプがその代表作となっている。
彼の作品は、典型的なアールヌーヴォー様式であったから、1920年以降に訪れるアールデコの風潮に次第に受け入れられなくなっていった。 そのために経営は順調にゆかなくなった。 ヨーロッパのガラス工芸家が、アールヌーヴォーからアールデコへ素直に転身していったのに対して、ティファニーはむしろ自分の感性や信条を大切して、そうしたデコ様式を受けつけず、最後までアールヌーヴォー様式を守り続けて1933年にこの世を去った。
工房は、1939年まで続き、破産して解散している 。ティファニーは、潤沢な資金を背景に不毛のアメリカに孤高の光芒を放った唯一の美しいガラス工房であった。
 

Degué, Verrerie d'Art
デュゲ, ヴェール・ド’アート

略称 デュゲ
操業1926~1939年
仏・パリ
 

 

1926年、デヴィット・ギュロンがパリに設立したガラス工房。 操業初期、他工房(主にシュナイダー兄弟の工房)から有能な職人を多数引き抜いていたため、意匠がその模倣としてみられることが多く、著作権の裁判に発展したこともあった。 1930年頃には、デヴィット・ギュロンと、Édouard Cazaux (エドラウド・カゼックス)がデザインを担当した。 意匠はアールデコ隆盛期そのものでシンプルな作品が多い。 シャンデリアになると、巨大な作品も数多く手掛けてた。 初期の作品は大変質が良くコレクターで人気が高いが、末期は有能な職人が辞めていったので粗雑になり駄作が目立つ。 初期の作品の中には、著作の関係でサイン刻印していない物が多い。