Maurius-Ernest Sabino
マリウス-エルンスト・サビーノ

生没 1878~1961年
仏・パリ
 

 

 

 

 
4歳のときに故郷のシシリーからパリへ移住。父は木彫家であったために、長じてパリ工芸学校、続いて美術学校に学んだ。
第1次世界大戦後の1914年に、ロミーリ・シュル・アンデル・ガラス工場と契約して仕事を始めたが、まもなく自分の工房を開設して、そこで自分の作品の制作を行った。
彼は当初建築照明に主力を注いで、多くの大建築のインテリアを設計したが、なかでも豪華客船「イル・ド・フランス号」の照明や壁画装飾(1927年)、また「ノルマンディ号」のインテリア(1935年)は、世界の注目を集めた。ノルマンディ号の1等船客用のホールの壁画装飾の長さは300mに及び、直径1.3mの巨大なシャンデリアが15灯吊り下げられ、階段の手すりやエレベーターのドアまでもが、サビーノのプレス・ガラスで作られていた。
サビーノは、金型を使った型吹き、または押し型成形によって、彫塑的な作品を作ったが、その範囲は、上記のような建築インテリア分野から、日常食器、小オーナメントにまで及んでいる。主として、無色、オパルセント、淡色のガラスを使用していて、ルネ・ラリックの作風と共通している部分もあり、混同されることもある。工房は、第2次世界大戦中は閉鎖されていたが、その終結した1945年から再開されて、1961年彼が死去するまで続いた。
彼の死後、その金型類はアメリカに売却され、現在レプリカがアメリカで生産されている。
 

Saint Louis
サン・ルイ・ガラス工場

1767年~
仏・ロレーヌ地方
 

 

フランスでバカラ社と並ぶガラス器のブランド。1586年、前身のミュンツタールガラス工場が操業。 1767年、ルイ15世から、聖王ルイ9世にちなんだ“Saint Louis”の名称を受けて、サンルイ王立ガラス工房となる。 1781年、フランスで初めて鉛クリスタルの開発に成功した際に、サンルイ王立クリスタル工房となる。 19世紀初頭には鉛クリスタルにカットをほどこしたテーブルウェアの製造を開始。 19世紀半ばに発表されたペーパーウェイトは、世界中のコレクターに珍重されている。王朝風の繊細で優美な装飾が特徴。 現在はエルメス傘下。
 

Jean Noverdy
ジャン・ノヴァルディ

または、ノヴェルディ
生没不詳
仏・ディジョン
 

 

 
ミュラー兄弟の工房でガラス製法を学んだのち、1920年頃、故郷のDijon(ディジョン)で独自の工房を設立。 設立当初は、師ミュラー兄弟の流れをくみ、可憐なアールヌーヴォー様式を基調としてた。 アール・デコが勃興すると、時代の流れに従いより端正な作品を手掛けた。 製法は主に、パート・ドゥ・ヴェール、カメオ、グラヴィールの作品が多く、照明器具、花器、食器などの芸術ガラスが主だった。 同工房は、メタルワーカーとの連携が他工房よりも密であったので装飾のバランスに優れており、作製年代を問わず全体的に品質の良い作品が多いです。 1930年頃に工房は閉鎖。
 

 

Schneider Freres
シュナイダー兄弟

エルストン・シュナイダー(1877-1937)
シャルル・シュナイダー(1881-1953)
仏・エピネー・シュル・セーヌ
 

 

 

 

 
エルストン・シュナイダー(1877-1937)とシャルル・シュナイダー(1881-1953)は、ドーム工房のアートディレクターを経て、1913年にガラス工場をエピネー・シュル・セーヌに設立。 シュナイダーの製品は、殆どが弟のシャルルがデザインしていました。 初期の作品は、ナンシー派の作品に傾倒したものが多く、ヴィクトール・プルーヴェやミュラー兄弟、ドーム兄弟との交流も深かったことから、カメオ技法、パート・ド・ヴェール技法を用いたアール・ヌーヴォーの意匠の作品を多く残している。
アール・デコが最盛を迎える前の1920年頃になると、彼らの作品も時代の影響とともにアール・デコの意匠に変わっていき、器形はシンプルで色調の変化や気泡の混入で特色を出している。 また、カメオ・グラスも幾何学文を高浮き彫りにエッチングしたものから、具象的な形を表現した物まで多岐にわたっていた。 その他の作品も、概して幾何学的な意匠の作品が多い。 サインは、Le Verre Françaisのほかに、Schneider、Schneider Freresと刻銘されている。
 

 

Georges de Feure
ジョルジュ・ド・フール

本名: ジョルジュ・ジョセフ・ファン・シュリュイテール
生没 1868~1928年
仏・パリ
 

 

 

 
ジョルジュ・ド・フールの父はオランダ人、母がフランス人で、子供の頃はオランダ領東インドで過ごし、1890年にパリに帰って生活した。 本職は画家であったが、コスチュームデザイン、家具、テキスタイル、陶磁器など、いろいろな分野の仕事を手がけた。 そして、1894年にパリのエマール・ナショナル・デ・ボザール(国立美術学校)の工芸家の教授になった。その頃に、3点のガラス作品を制作した。 1つは水差しで、他の一つは押し型成形でギリシャ風の女人楽隊が連続的に浮き彫りされた容器である。 もう1点は、やはりギリシャ風のコスチュームを着けた女人群像をエッチング技法で浮き彫りしたもの。 いずれも量産されており、市場にはよく出回っている。
 

Stuart England
スチュアートクリスタル

(スチュアートイングランド)
創業 1872~2001年
英・パリ
 

 

 

スチュアートクリスタル(スチュアートイングランド)は、1872年にフレデリック・スチュアートによって創業したクリスタルガラスメーカー。 無色で粒子の揃った上質の珪砂しか使用しないことで知られており、また、数種の色の融解の温度差を利用したヴィクトリアンカラードガラスの先駆者として有名。 世界恐慌など何度かの経営難を乗り切りながらも一族経営を守り抜いてきたが、2001年こちらもまたクリスタルガラスで有名なウォーターフォード&ウェッジウッド社に吸収合併された。 現在はウォーターフォードの商標でスチュアートクリスタルのシリーズが何種か発売されている。
 

Cristal de Sèvres
セブール・クリスタルガラス工場

1686年~
 

 

 

 
1686年、ルイ14世がシャイヨー宮に創設した王立ガラス製作所が前身で、1870年代、工房をポンパドール夫人がセーブルのベルビュー城に移転したのが始まり。
のちにロレーヌ地方へ移転し、1885年には、所有者名と合併工場の名称を併記した「ランディエ・ウーディユ・クリッシー・セーブル・クリスタル工場」となり、1900年からはランディエ&ソンズ・セーブル・クリスタルガラス工場、1930年からは、クリッシー・セーブル連合クリスタル工場となった。 現在でも手吹きの製法にこだわり、1点ずつていねいに作られている。
作品は主にカメオ技法で草花模様や魚蟹類を彫ったものや、マーブル・グラス、アヴェンチュリン・ガラス、べっ甲ガラスなど広範囲に品種の作品を制作した。 中でも好評を博したのが、乳泊素地に色被せをして、豪快にカットやグラヴィールを施したカメオ作品であったが、これらの様式は1900年代の初め頃まで作られて、間もなく中止された。 作品の多くは万国博覧会や国際展に出品されて、数々のグランプリや名誉賞を受賞している。 作品には主として底部にSEVRES,SEVRES L et F, Sevres 1900 などと刻銘または銘記されている。