
S.E.V.B社は、正式名を Société d'exploitation des verreries de Bayeux といい、フランスのバイユー市が運営していたガラス協会のこと。 行政が運営する工芸ガラスの生産を中心とする経営スタイルがバカラ社やサンルイ社(当時は国営だった)に似ているが、S.E.V.Bはクリスタルガラスを作っておらず、パート・ド・ヴェールに特化しており、アールデコ期ナンシー派と遜色ない高品質のガラスを作成していた。 バイユー市がイギリス海峡沿岸の付近という立地から、イギリス方面への輸出も盛んだったようで、イギリスに仕入れの際に同社の製品がよく見つかることがある。 1930年頃に世界恐慌で経営難に陥り操業を停止した。
BAUHAUS
バウハウス学校、バウハウス建築様式
独・ヴァイマル(ワイマール)

1919年

現在
1919年、ヴァイマル共和政期ドイツのヴァイマルに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った造形学校。ナチスにより1933年に閉校されるまでのわずか14年間であったが、その活動は現在も世界中の建築界に大きな影響を与えている。
産業革命以降、機械による大量生産が進む社会の中で、工業化に対する革新的な芸術運動が盛んに行われた。その流れの中で、バウハウスはその実験的・挑戦的な試みにより、近代デザイン成立の上で大きな役割を果たしている。
名前の由来は、ドイツ語で「建築の家」を意味していて、中世の建築職人組合であるバウヒュッテ (Bauhütte, 建築の小屋) という語を現代風に表現したもの。命名者は近代建築4大巨匠のヴァルター・グロピウスで、彼がバウハウス校の初代校長を務めている。
1764年、戦争で衰えた経済力を復興させようと、フランス・ロレーヌ地方の司教、モンモランシー・ラバルが、国王のルイ15世に「国内にガラス工場の設立を認めてほしい」という請願状を送った。国王は、これを承認。ロレーヌ地方の南部にあるバカラ村に工場が建てられた。 村には深い森と清流があり、窯に必要な薪を供給できる豊富な森林、工場のエネルギー源となる河川の水力といった、ガラス製造に必要な条件に恵まれていた。ガラス工場は1789年のフランス革命の影響で一時、経営困難な状態に陥るが、1816年に、若き実業家、エメ=ガブリエル・ダルティーグが買収。クリスタル工場へと変身させ、高級クリスタルの製造がスタートした。
1823年、フランス国王ルイ18世がグラスセットを注文をしたのをはじめ、バカラ製品は国王、皇帝(ナポレオン三世)、大統領らに愛用された。 1867年と1878年のパリ万国博覧会ではグランプリを受賞した。
20世紀に入り、バカラの創造の幅を広げたのが若手デザイナー、ジョルジュ・シュヴァリエ。アール・デコの美しく洗練されたラインを取り入れ、今に続く、動物彫刻の作品を制作。 クリスタルアートの新しい分野を確立した。
以後、「最良の素材、最高の技術、そしてそれを受け継ぐこと」をモットーに「王者のクリスタル」と呼ばれる。 バカラのクリスタルが一つの形となるまでには50~60の過程を経て、その中にはフランスで最優秀の職人のみに与えられるM.O.F.の称号を持つものも含まれる。
Victor Prouvé
ビクトール・プルーヴェ
生没 1858~1943年頃
仏・ナンシー
"Victor Prouvé"(ヴィクトール・プルーヴェ)と同人参照。(ア~オ)
1883年パリのブローニュ・ビヤンクール郊外で宝石デザインの職人として創業。 後にラリックと同じくアールヌーヴォー芸術のガラス工芸家に転身している。 初期は、パート・ド・ヴェール素地にエナメル彩色とグラヴィールを組み合わせた典型的なアールヌーヴォー様式の影響を受けた作品が目立っている。 彼が名声を高めたのは、ベルギーのヴァル・サンランベール工場(ベルギーの王立クリスタルガラス工場)に招聘されて制作した作品が1894年アントワープ万博で金賞を受賞したことからである。 以後、クリスタルガラスへの傾倒とともに、作風もアールデコ芸術の抽象的でエキゾチックなスタイルに変化している。 1910年、パリでアールデコ芸術の建築資材を作成していたゲートン・ジェナ工場に買収されている。(ゲートン・ジェナの操業は1935年まで続いている。)
ルネ・ラリックと履歴が似ているが、毒素がある酸化鉛を用いて精製しなければならなかったクリスタルガラスの職人は非情にも短命で、ヒューバート自身も鉛中毒者であり病気が原因の定かではないが、1920年に訪れるアールデコ芸術の隆盛を目前にして工房を手放している。
フォストリア(フォストリアガラス工場)は、1887年ルシアン・マーティンとウィアム・ブレイディーによって米国オハイオ州で創業したガラス工場のこと。 もともとはオハイオ州から工業誘致を請けて創業したが、のちに周辺地域でガラスの材料となる資源採掘が乏しくなり、1891年ウエストヴァージニア州マンドスヴィルに拠点を移し現在に至っている。 フォストリアの作り出すガラスは多彩で極めて繊細かつ可憐な製品が多く、特に薄色を帯びたエレガントガラスのシリーズが同社の代表作で、現在でも人気の的となっている。 他にもフランス様式のクリスタルガラス、チェコガラスの様式を取り入れたエナメル彩、オイルランプや腐食やカット技法を用いた食器など様々である。
Peter Behrens
ペーター・ベーレンス
ペーター・ベーレンス(Peter Behrens、1868年 - 1940年)は、20世紀ドイツの建築家、デザイナー。モダニズム建築。
初めはミュンヘンで画家・グラフィックデザイナーとして活動し、1892年、ミュンヘン分離派に参加。建築家に転じ、ヘルマン・ムテジウスのドイツ工作連盟に参加。
1907年、ベルリンに事務所を開設。電機メーカーAEGのデザイン顧問に就き、同社タービン工場の設計を手がけた。これはモダニズム建築初期の代表的作品になった。また、照明器具、食器、家電、文房具、ガス給湯器、タイプライターといった工業製品のデザインも手がけるなど、インダストリアルデザイナーとしても活躍した。彼のデザインした会社ロゴは各種のAEG製品に使用され、これがコーポレートアイデンティティの先駆けとなった。
1922年にはウィーン美術院建築学校長に就任。
ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエも、一時期ベーレンスの建築事務所に在籍していた。
主な作品
- 自邸(1901年): ベーレンスが画家から転向した直後の作品でダルムシュタットの芸術村に造られた。アール・ヌーヴォーの影響が色濃い。
- ハーゲンの火葬場(1907年)
- シュレーダー邸(1909年)
- AEGタービン工場(1910年): 鉄骨造という新しい技術を用いながら、機能優先の工場建築を古典主義的な骨格を持った芸術的なデザインで構成した作品。
- ヴィーガント邸(1910年): 考古学者テオドール・ヴィーガントから注文を受けて完成させた作品。
- クノ邸(1911年)
- ヘキスト染色工場(1925年)
- GHH社中央倉庫(1925年): オーバーハウゼンのGHH製鉄所が1920年に行ったコンペで選ばれて建設された作品。現在、建物はライン工業博物館の資料館として使用されている。
第一次世界大戦後、ガレの工場を辞めて、いくつかのガラス工場(ポール・メルシー、ウェジェーヌ・ウィンデック、ユナイテッド・エングレバー協会など)を点々とした。 その時より使われていたサインが、 D’Argental 、 L’Art Verrier など。 1919年、自身の工場をナンシーで開業し、主としてグラヴィールを駆使した作品を制作したが、一方ではサン・ルイ工場とも契約して、アールヌーヴォー様式のカメオガラスの制作を行っていた。 ガラス工芸家としての生涯を終えるまで最高15人の雇用者が存在していた。 1925,1936、1937年の博覧会で受賞して、40年以上務めたガラス工芸家を讃える功労賞も受賞している。 ちなみに、ポール・ニコラは1901年にエコールド・ナンシー(ナンシー派)に登録している。
初期の作風はアールヌーヴォーそのものであり、当時は師ガレの模倣と見なされ評論家に酷評されることもあった。 近年になってアールヌーヴォー期ガラス芸術史の研究が進むと、彼のガレ工場での功績が評価されるようになった。 アールデコ期の全盛はクリスタルガラスなどの作品も数多く手掛けている。 近年の市場では、ガレと同等価格の扱いを受けるものも見かけるようになったし、ガレの独立していった弟子の中でも作品のクォリティーは群を抜いていると断言してもいい。 未だ日本では、紹介される機会が殆ど無かった作家なので、アールヌーヴォー愛好家には是非覚えておいてほしい。
ボワローは、ボルドー市ガロンヌ下流に工房を構え、1925年ごろから1935年まで操業していたガラス工房で主に照明器具を制作していた。
1920年頃になると、アートガラス制作の中心であったナンシー市から、首都パリや海外輸出までを一環して行いやすいボルドーなど北岸の中都市に拠点を構えるガラス工場が目立つようになった。 ボルドー市の古い教会やホテルに行くとボワロー社製のシャンデリアを今でも見かけることがある。
ボワローは、レギュールと呼ばれる錫系の合金製のフレームを使うのが特徴で、アールデコ様式を象徴するエキゾチックなフレンチデコスタイルと清涼感が欧米で高い人気を博している。 パート・ド・ヴェールのデコレーション技術においても特筆されているメーカーで秀作を多く残している。