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1888年5月、パリ。広重や北斎といった浮世絵など江戸時代の日本美術を紹介した雑誌『LE JAPON ARTISTIQUE(芸術的日本)』が創刊されました。発行者は、画廊「アールヌーボー」の店主サミュエル・ビング。やがてヨーロッパで一世を風靡する芸術運動”アールヌーヴォー”の名付け親でその火付け役となった人物です。すでに知られているとおり、このアールヌーヴォーは日本の美術品から深く影響を受けていました。

1867年、パリ万国博覧会で徳川幕府使節団により大量の日本美術品が持ち込まれたことにより、極東の小さな国・日本への関心がヨーロッパで次第に高まっていきました。 徳川幕府が崩壊すると、仏像や日本画をはじめとする美術品は二束三文で海外の美術商たちに買い取られて欧米の市場に大量に流入してきたこともあり、長い鎖国から目覚めた芸術の国はヨーロッパで噂の的となっていました。 特に斬新な構図や珍しい風俗が描かれた浮世絵は高い人気で、まさに日本美術の一大ブームが沸き起こり、当時のヨーロッパ芸術家たちにも多大な影響を与えました。

一部のフランス芸術家たちによって流行していた”ジャポニズム運動”(日本趣味)は、19世紀末になると突如として、”アール・ヌーヴォー”(フランス語で、「新しい芸術」)という芸術様式へと昇華し、その風潮は瞬く間にヨーロッパ全土へ広がり華々しい隆盛を極めました。
 アールヌーヴォーを提唱する組織団体として最も成功を収めたのが ”ナンシー派” です。 その中心人物となったガラス工芸家エミール・ガレを慕い、多くの芸術家たち(ドーム兄弟、シュナイダー兄弟、ルイ・マジョレール、ヴィクトール・プルーヴェなど)がナンシーに集まったそうです。 また、ガレの工房で働いた多くの弟子たち(ミュラー兄弟、アンドレ・ドラットなど)も独立し、ナンシー派としてナンシーで工房を構える者や、自身の故郷で工房を構える者がいました。 もともと、ナンシーという町は自然豊かでロココ様式やゴシック様式のエナメル絵付けガラス工芸品が特産となっていた町でしたが、ナンシー派の台頭によるアールヌーヴォー開花で町は大きく賑わいました。

ガレがアールヌーヴォーに目覚めたのは、ナンシー水利森林学校に留学中の農商務省官僚で美術に造詣の深い高島北海と交流を持ち、日本芸術に触れ文物や植物などの知識を得たことが影響しているといわれています。 ガレは此処で、人と人との出会い繋がりへの感謝、その大事さを知ったのではないでしょうか。
その思想は、後のガレの芸術家としての生き方に反映され、多くの芸術家たちに受け継がれていきました。ガレの最も評価すべき功績は、沢山の素晴らしいアールヌーヴォー作品を残したこともさることながら、多くの素晴らしい弟子たちを育て独立させたことだと思うのです。

「アールヌーヴォーは日本芸術に縁有る里帰りの品だから、これからも価値がどんどん騰がりますよ。」

というキャッチコピーに、どれだけの消費者が躍り、どれだけの業者が そんな儲け話に躍起になったことでしょうか・・
バブル全盛期、大量のアールヌーヴォー美術品が日本に持ち込まれました。 アールヌーヴォー本来の素晴らしさを愉しむことよりも、投機的ビジネスの目的として、安易な儲け話の道具として、もて流行らされた忌むべき過去です。 その間違った流行により、バブル崩壊後の日本人にとってアールヌーヴォーとは、”忘れがたい忌まわしき過去” のような、排他的なイメージが色濃く残ってしまいました。

世界では、アールヌーヴォーは素晴らしい芸術・文化として、絶えることのない賞賛と脚光を浴び続けています。

「長府とアールヌーヴォーは繋がっているのだから。」

弊社A&Oは、高島北海が晩年の地として愛した下関市長府に在ります。
また、長府は長府毛利藩のお膝元として栄えた自然と史跡が調和する城下町でもあります。 この格式高い地でアールヌーヴォーの素晴らしい品々を取り扱えることを感謝しています。 そして、その素晴らしさをもう一度皆様と再確認しあうことで、アールヌーボーの源流となった日本美術の根底にあるユニバーサルデザインを感じることも出来ると信じています。

A&Oでは、19世紀末~20世紀初頭のガレ、ドーム、シュナイダーを中心としたナンシー派、また、フェリックス・ブラックモン、ウジェーヌ・ルソーを中心とするパリ派のアールヌーヴォー作品を幅広いラインアップで取り扱いしています。


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