Argy Rousseau
アージー=ルソー

(ガブリエル・アージー=ルソー)
生没 1885~1953年
仏・メレ=ル=ヴィダム


 

 

 

 

 
ガブリエル・アージー=ルソー、本名はジョセフ・ガブリエル・ルソー。 彼は元々、化学・物理学者で、後にセーヴル国立陶芸学校でガラス工芸を学んだ。 卒業後、パリ郊外に自分の窯を開き、そこでパート・ド・ヴェールの研究を始めて、1914年にフランスの芸術家サロンに出展している。
作品は、一定の枠の中のフリーズの中に花や果物や人物や動物などが整然と配置された典型的なアール・デコ様式であった。 彼の作品はその後、非常に人気を博し、さっそく画商がついて、1921年にはアージー=ルソー・パート・ド・ヴェール会社がパリのサンプロン通り9番地に設立されて、十数名の職人が雇い入れられた。 ここでルソーの原作品は次々とコピーされ量産されていった。 彼の技法は、色ガラスの粉末に金属酸化物を混ぜて発色させる方法で、色彩の幅は非常に広い。 とりわけ、光りを透過したときの色彩の美しさは抜群の輝きがある。 したがって、ランプやランプシェード、キャンドルスタンドなどに秀作が多い。 余談ながら、彼は他に電気関係の発明で多くのパテントを取ったり、写真マニアとして、カラーのスナップ写真を1925年に撮影成功したりして、発明発展賞をもらったりしている。 1929年の世界恐慌で工場は倒産したが、その後も細々と制作を続け、1953年に死去した。
 

Amalric Walter
アマルリック・ワルター

(ヴィクトールア・マルリック・ワルター)
生没 1859~1942年
仏・セーヴル
 

 

 

 

 

 
ヴィクトール・アマルリック・ワルターは、セーヴルに生まれて、セーヴル国立陶芸学校に学んだが、そのとき、パート・ド・ヴェールの技法をガブリエル・レヴィ教授に学んだ。卒業後、ワルターはこのパート・ド・ヴェールの技法を追求して、その作品を1903年頃より発表し始めた。これに着目したドームは、1908年に彼を招いて、ドーム工場ののデザイナーとして働いていたアンリ・ベルジェ(1878~1930年)と共作させた。ドーム工場のパート・ド・ヴェール作品は、彼の手によって、第一次世界大戦が始まる1914年まで作り続けられた。ワルターの作品は、原形師がいたが、上述のベルジェの他に、ヴィクトール・プルーヴェ、ジャン・ベルナール・デコールなどが知られている。
第一次世界大戦後の1919年に、ワルターはナンシーに自分の工房を設立して、パート・ド・ヴェール作品を作り始めた。
彼の作品は、非常に粒子の細かい、粒の良くそろったガラス粉を使っていたらしく、その熔解は見事に泡が切れて滑らかな肌を見せている。色ガラスの模様外への流れも少なく、所定の場所に色彩がよく留まっている。 得意の作品は、タナグラ人形、かに、えび、カメレオン、かえるなどの小動物の小彫像である。他に蓋物やステンド・グラス、装飾板なども制作していた。
 

acid glass
アシッドガラス
腐食ガラス

別名: Etched glass(エッチドガラス)
 

 

焼成したガラスを窯で冷ました後、ガラスの表面に型紙などで保護部分をつくり、それ以外の部分をフッ酸などの薬品などを用いて化学反応を起こすことで腐食させる技法。 古来からの歴史のある技術で、アールヌーボーの巨匠エミール・ガレやドーム兄弟が多く用いた装飾技法の1つとしても知られています。 カメオガラスの凹凸も、エッチングの強弱を巧みに利用した技法で、腐食が強い(凹凸が深い)ものはディープ・エッチングとも呼ばれる。 通常はフッ酸(フッ化水素酸と硫酸の混合液)を腐食液として使用するのですが、最近では、薬品の危険性から専用のエッチングクリームも用いられている。

Andre Delatte
アンドレ・ドラット

生没 1887~1953年
仏・ナンシー
 

 

 

 

 

 
L'Ecole de Nancy(国立ナンシー美術学校)出身。ガレのガラス工房で修行し、1921年にナンシーで独立、カメオガラスとエナメル彩色のガラス花器、照明器具などを制作した。
彼のカメオガラスは、2、3層の層を弗化水素酸で腐蝕して、風景や草花文をレリーフ状に刻みだしたもので、グラヴィールなどで細部の仕上げを施していない。 また、エナメル彩色は、明るい強い色調ではっきりとした意匠の文様を絵付けしている。 様式はアールデコの典型で、抒情性を除外して純装飾的に形式化・簡略化した動物や人物の文様が使われている。 照明器具は、ヴィトリフィカシオンによる色ガラスの地文がよく生かされている。 モダンガラスの第二世代ともいえるアンドレ・ドラットの作品は、おおむね両時代の様式の折衷主義的方向にあると思えるもので、極端なスタイルの変化を示したものとはいえない。 モティーフの簡略化や簡素で強い色彩と形態には特色があるが、装飾的効果をまだまだ意識したものであった。 サインは、Delette Nancyと入れられているものが通例。
 

Ezan
イーザン

1930~1940年頃
仏・パリ
 

 

 

 

イーザンは、作家ではなく美術商のこと。 1930年頃にパリ郊外に出店し、当時のアールデコ工芸家たちに照明や贈答用の皿など様々なガラス工芸品を注文し作らせていた。 アールデコの意匠が強く感じられるパートドヴェールとオパールセントガラスの工芸品が主流。 サビーノもガラス製品をいくつかイーザンに納品していた記録が残されている。 第二次世界大戦の最中まで操業を続けていた。

Victor Prouvé
ヴィクトール・プルーヴェ

生没 1858~1943年頃
仏・ナンシー
 

 

 

 

 

画家・彫刻家であったが、工芸に対する関心が強く、エミール・ガレ、ルイ・マジョレル、ウジェーヌ・ヴァランに協力して、家具・陶器・ガラス器などの絵付け用の下絵を描いた。
ガレとは幼友達で、仕事の上でも生涯行動を共にした。ガレの代表作である「オルフェウスとエウリディケ」や「夜 沈黙 眠り」「アモールは黒い蝶を追う」などの下絵はいずれもプルーヴェが描いたものだった。 1901年にガレがエコール・ド・ナンシー(ナンシー派)を設立したときには、その副会長に任命され、1904年にガレが亡くなると、その後を継いで会長に就任した。そして、ガレの工房の経営もその死後一任されて、1914年まで、もっとも多難な時代を管理した。(第二期工房作品)
彼は絵の他にも彫刻、装身具、本の装丁、家具・ガラス・陶器などのデザインも行った。
彼の息子ジャン・プルーヴェも、家具デザイナー・建築家として活躍し、ナンシー市長や大学の教授を務めた。

Eugène Michel
ウジェーヌ・ミッシェル

生没 1848~1910年頃
仏・パリ
 

 

 

 
1848年に、ムルト・エ・モーゼル県リュネヴィルに生まれ、1867年よりパリ派の ウジェーヌ・ルソー(アール・ヌーヴォー芸術の先駆者)工房でグラヴィール技師として従事。 1890年代中頃に独立して、パリのミコディエール街20番地に工房を設立。 作風は、カメオグラスに花や植物を高浮き彫りにした製品を得意としていた。 1899年から1904年パリ美術家連盟サロン展に、1910年装飾美術家連盟展にそれぞれ出品  しかしその後は不明な点が多く、残した製品も少ない。 フランス芸術史年鑑では、第一次世界大戦以前に死亡したとされている。 サインは、E.Michel、Michel Nancy、Michel Paris などがあり、無銘のものもある。
 

Verlys
ヴェルリィ社

設立者: Les Andelys(ラ・アンドリー) 
生没 1920~ 1955年 
仏・パリ

 

 

 
工房の名の由来は、VERrerie d'AndeLYS(訳:ガラス工房アンドリー)の前後3文字を取って付けられた。
設立当初は、製作の人員をアメリカの産業ガラスで有名なホロフェーン社の職人で構成していたが、後年はボヘミアのガラス職人たちが働くようになっていた。 ボヘミアの職人の時代になった後の1933年には、宙吹きガラスの製造もしているが、その期間は短かく、後期になると大量生産向きな型吹きガラスに取って代っており、前期の作品と比べると同時代のガラス工芸家とは格下に見られる傾向。
意匠は完全なアールデコであり、皿、コップ、照明器具など、さまざまな日用品ガラスを当時流行していたオパールセント技法で製作した。
 

 

Hettier & Vincent
エティエ・ヴァンソン社

1920年~1930頃
 

 

 

 

アールデコ期、エティエ&ヴァンソン社(H&V)は、最上級の照明を作りだすことに特化して、上流階級のパリっ子に提供するという一大トップマーケットを築きあげた。 当時、よく名が売れていたルネ・ラリック、ドーム工場、バカラクリスタル、ミュラー兄弟、シュナイダー兄弟などのガラス工芸家と、エドガー・ブラントなどの金工細工師を合作させるダブルネームと呼ばれる手法で素性の良い素材しか使わなかった。 金属フレームには、鍛鉄、ブロンズを用いた他に、レギュールと呼ばれる錫系の重量感のある合金製のフレームを使うのが特徴で、アールデコ様式を象徴するエキゾチックなフレンチデコスタイルとシャープな清涼感は高い人気を博した。 その人気の高さは現在のオークション市場での実勢価格にも反映されている。

ECOLES DE NANCY
エコール・ド・ナンシー

1901年~

1901年、手工芸産業の振興を目的に、アントナン・ドーム、エミール・ガレ、ルイ・マジョレルらが、後にエコール・ド・ナンシー(ナンシー派)と呼ばれる芸術協会を設立。
のちにこの協会は後進の育成を目的として学校化され、現在の(エコール・ド・コンデ = パリ市、リヨン市、ナンシー市の三都市にある国立芸術学校)の一つとして数えられている。 エコール・ド・ナンシー校舎は、かつての修道院を利用しており街を一望できる美しい公園の中にあって環境に恵まれている。 現在は、室内設計・視覚伝達デザイン・服飾デザイン・産業、工芸デザインの選択コースがある。 国家資格を目指すこれらのコースには、充分な語学力が必要な為、1~2年リヨン又はパリでのフランス語学習が義務づけられている。
 

etched glass
エッチドガラス

別名: Acid glass
 

"Acid glass"(アシッドガラス)と同意参照。
 

Edgar Brandt
エドガー・ブラント

生没 1880~1960年
仏・パリ
 

 

 

 

 

 

エドガー・ブラントは、アールデコ期に活躍したメタルワーカー(金工細工師)。 この当時、メタルワーカーとして独立して最も名が売れていた人物でもある。 アールヌーヴォー晩期からアールデコ期のドーム工房に依頼を受けて、レリーフや照明のメタルフレームの作成もしていた。 意匠は、日本のジャポニズム、中国のシノワズリーの影響を受けており、モチーフは自然植物や野性動物を対象に、極限なまでの具象化とリアリティーを追求し且つ躍動感に溢れた。 作品の種類には、建物に据え付けるストーブカバー、コンソールテーブル、ランプ、階段手摺り、照明、窓格子、門扉などを手掛けている。 後年のミッドセンチュリー時代の礎を築いた功績も評価されている。
 

Edmond Etling
エドモンド・エトラン

生没不詳(1909年~1940年頃)
仏・パリ
 

 

 

 

エトラン (La Societe Anonyme Edmond Etling) はエドモン・ローラン・エトランが1909年、パリ市パラディ通り29番地に設立した美術工芸品店です。 ディミトリ・シパリュス、A. ゴダール、クレール=ジャン・ロベルト・コリネ、リュシル・スヴァン、ジャン・テオドール・ドラバセ、ガザン、ジョルジュ・ベアル、モーリス・ギュイロ=リヴィエール、マルセル・ギュイヤールら、フランス・モダニスムを代表する芸術家の作品を取り扱い、後にアール・デコと呼ばれることになる美術様式の確立に大きな役割を果たした。
エトランの店は第二次世界大戦中に営業を停止し、ユダヤ人であった創業者エドモン・ローラン・エトランはドイツの強制収容所でその生涯を終えたと考えられている。エトランの店の消滅とともに、アール・デコの時代も幕を閉じた。 アール・デコの終焉を飾ったのは、1940年にニューヨークで開かれたワールド・フェアであるといわれている。 エトランが生み出した数々のガラス、セラミック、ブロンズ製美術工芸品は、その美しさと最高の品質によって、世界のアール・デコ愛好家の間で高い評価を得ている。
 

Émile Gallé
本名 Charles Martin Émile Gallé
シャルル・マルティン・エミール・ガレ

生没 1846~1904年
仏・ナンシー
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
1846年5月4日、フランスロレーヌ地方ナンシーで誕生。1858年にナンシー帝立高等中学校(リセ)に入学。修辞学、文学、哲学、植物学、に優れた成績を修めた。1865年の秋から67年までドイツのヴァイマルに留学し、ドイツ語の研修とデザインを修めた。1866年から67年にかけて、マイゼンタールのブルグン・シュヴェーラー社 (Burgun, Schwerer & Cie.) のガラス工場でガラス製造の技術を習得した。
 
1870年、プロシアとフランスの間に普仏戦争が始まり、ガレは義勇軍に志願した。1871年にプロシア軍はフランス軍を圧倒しパリに入城。敗戦国となったフランスはフランクフルト条約によりガレの故郷ロレーヌ地方の一部とアルザス全域を割譲した。退役後、父についてイギリスを訪問し、サウス・ケンジントン美術館を見学した。
 
1877年に父に代わって工場管理責任者となった。
 
1878年、パリ万国博覧会に独自に開発した'月光色'ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地)や陶器を出品し、銅賞を受賞。また庭園装飾のための陶器で銀賞を受賞。
 
1884年、装飾美術中央連盟主催の「石木土そしてガラス」展に出品し、金賞を受賞。1885年より、ナンシー水利森林学校に留学中の農商務省官僚で美術に造詣の深い高島得三と交流を持ち、日本の文物や植物などの知識を得たといわれる。このような交流から、ガレは日本人の「もののあはれ」の心情を体得したと主張する日本人研究者もいるが、ガレ本人の残した文章には「もののあはれ」は触れられておらず、フランスの研究者の間では否定的な見方が主流的になっている。
 
1886年、ナンシーの自宅近辺に建設した家具工房で製造を開始。
 
1889年のパリ万博に大量の作品を出品、また自社製パヴィリオンを用意して展示作品の演出も試みた。その結果、ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金メダル、家具部門で銀賞を受賞し、装飾工芸家として国際的な評価を得る。特に黒褐色のガラス素地を使用した一連の作品は評判がよかった。代表作に「オルフェウスとエウリディケ」がある。
 
1894年に家具工場が建つ敷地を買い増しして、ガラス製造のための工場を完成させる。1898年には「マルケトリ技法」、「パチネ素材」で特許を取得した。1900年のパリ万博に大量のガラス器、家具を出品。再びグランプリを獲得し、ますます評価を高めた。 1901年、「エコール・ド・ナンシー」(ナンシー派)の会長に就任した。1903年、パリのルーブル宮マルサン館で開催されたナンシー派展に出品。1904年9月23日、白血病により死去、58歳。
 
その後工房は、画家のヴィクトール・プルーヴェと夫人のアンリエットによって経営を続けた。製造品目はエッチングによるカメオ彫り製品が大半を占めた。
 
1914年~18年の第一次世界大戦中に一時製造を中止。1918年には娘婿のポール・ペルドリーゼによって製造を再開したが、1931年に会社は解散。工場の敷地は売却された。
 
 
第一期 エミール・ガレ運営の時代

 
第二期 ヴィクトール・プルーヴェとアンリエット夫人運営の時代 (1904-14) 

 
第三期 ポール・ペルドリーゼ運営の時代 (1914-31)

 

Auguste Jean
オーギュスト・ジャン

生没 ?~ 1890年
仏・パリ
 

 

 

 
オーギュスト・ジャンはもともと陶芸家であったが、新しい素材として注目され始めていたガラスに関心を持ち、1870年頃よりガラス工芸を手がけるようになった。 当初は、透明素地の日本的な形をした花器に、孔雀や草花などをエナメルで絵付けした日本風の作品や、ペルシアの花柄模様をモチーフにしたペルシア風の作品などを作っていた。 後に、ガラスの柔軟な流動感を生かしたローマングラス風のガラスの多紐装飾品や透明ガラスに発泡剤を混入した素地で、東洋風のイメージを持った花器などを制作した。 彼の作品は、あまり日本に紹介されていない。
 

Auguste Jean = François Legras
オーギュスト・ジャン = フランコイス・ルグラ

生没不詳
仏・パリ
 

 

 

 
1864年、創設者オーギュスト・ジャン・フランコイス・ルグラは、サン・ドニ・クリスタル・ガラス工房を買収し、以後テーブル・ウェアや装飾ガラスで成功を収めた。 1899年と1900年のパリ万国博覧会で大賞を受賞したのを期に数々の展覧会で賞を受賞。 全盛期には150人の装飾家を含む1400人のガラス職人が働いていた。
際立った上品な作品がアンティーク市場に出回ることは希で、どちらかというと、当時のフランスのアールヌーボー作品の模倣を効率的に量産していたと思われる。 しかし、フランスガラス産業への貢献は大で、創設者ルグラはレジヨン・ドヌール勲章を授けられてナイトの称号を与えられている。 作風は多岐に渡るが、アンティーク市場で最も一般的なカメオグラスは「Legras」のサインが殆ど。
 
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