2013年12月8日
 

 

 
 

高島北海~アールヌーボー
北海が晩年を求めた地・城下町長府


 

 

 

 

 

 

 

今回は下関市出身の僕がA&Oの出店に長府を選んだ理由を語りたいと思います。
 
アールヌーボーのガラス工芸家・巨匠エミール・ガレと日本の南画家・高島北海が関係していることは以前から知っていましたが、北海が山口県出身で晩年の地を過ごしたのが、此処・長府だったことに気付いたのは今から5年前のことです。下関市・長府と北海とアールヌーボーが繋がっている、アンティークを生業とする僕にとっては一大ニュースでした。「お店を構えるなら絶対に長府しかない!」と心に決めたときです。
 
高島北海(嘉永3年9月26日(1850年10月31日) - 昭和6年(1931年)1月10日) 南画家、地質学者)は日本では顕彰されていませんが、フランス芸術史では業績が高く評価されている人物です。
長門国萩(萩市)藩医良台の次男で、本名得三。北海は号。 1872年、工部省に勤め、生野銀山に赴任し、フランス人技師コワニェから地質学とフランス語を学びました。 1874年、「山口県地質図説」「山口県地質分色図」を著し、1884年、万国森林博覧会参加要員として渡英、その後、南仏ナンシー山林学校留学。
 
明治維新間近の長州藩といえば維新を目の前にしていろいろと殺気立ち、血なまぐさい事件も多かったはず。しかし、この高島北海という人はよくよく争いごとが嫌いだったのか、武人として戦に出ることもなく、維新後も長州藩閥の強い軍人とはならなかった。 とはいえ、このばたばたした時代に自分の思うような職につき、フランスに留学までしているのだから、才能があったとはいえ、長州出身ということが彼の人生に大いに役立ったのは間違いないでしょう。
 
北海が留学したフランスでは、まさにジャポニズムが隆盛の時期。彼が筆でさらさらっと描く水墨画は、周囲の人々の脚光を浴びた。
この頃、同じナンシーで工房を構えていたエミール・ガレと北海は出会う。ガレは北海から日本画技法の手ほどきを受けたことで、ジャポニズム運動(日本趣味)をアールヌーボーに発展させるに至った。北海と出会う前のガレは、ヨーロッパ諸国で流行するジャポニズムの風潮を肌で感じてはいながらも、未だ古典的なロココ様式のボヘミアガラス(エナメル絵付け)を作っていた。ようするに、北海とガレの出会いがなければアールヌーボー芸術は存在しなかったということになる。
 
1888年、北海は帰国し画家に転じました。そして中期~後期の画業生活を長府(山口県下関市)に求めています。長府に居を構え、現在の豊浦高校で図画講師をしながら中央画壇での活動もしていたそうです。 さらに、「長門峡」(命名は北海)など山口県の名勝地の開発や紹介に努めました。 昭和5年(1930年)、東京・品川の子息の元に身を寄せ、昭和6年(1931年)その生涯を終えました。享年80。
 
卒業したナンシーの学校には、タカシマの写った卒業写真とともに、彼が描いた植物の細密画や写生画が保存され、には彼のレリーフ(ビュシェール作)が飾られています。また、1886年のフランス東部美術展に日本画を出品、現地の高い評価を受け、その絶賛は日本にも報道されました。パリ装飾美術館長の依頼でリモージュ美術館に作品を寄贈し、1887年には仏政府より教育功労勲章を授与され、100年の後になって1987年(昭和62年)、日本で開催された「ナンシー派アール・ヌーボー展」では、日本とナンシーを結んだ人物として、ナンシー市長のメッセージがこう寄せられています。
 
「タカシマは花卉枝葉の美麗、即ち植物の真状を写し出すことに卓絶し、想像画家と自然画家とを兼ねるものは、日本人より他にあらざるが如し。而してこれを実行し得る者は、日本人にして森林家たるタカシマ氏、実に其の人なり・・・。」
 
町活性のイベントで長府とアールヌーボーを繋げられたら・・ ゆくゆくは下関市とナンシー市が姉妹都市に・・ なんてひそかに目論んでいます。。
 
 
参考資料: 『HOKKAI』 著・高樹のぶ子、『アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス』 著・由水常雄、『アール・ヌーヴォーとアール・デコ―甦る黄金時代』 著・千足 伸行、『エミール・ガレ―創造の軌跡展』 監・鈴木 潔

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